【球児の日記】「野球を好きになりなさい」ノムさんの一言に救われた

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出典:mainichi.jp

日本野球界を変えた野村克也さんの訃報

日本プロ野球界の巨匠がまた一つ…

11日、「ノムさん」の愛称で親しまれたID野球の生みの親・野村克也さんが逝去され、日本野球界に衝撃が走った。
NPB関係者や現役プロ野球選手の野村さんを悼む報道からも、野村さんがどれだけ日本の野球に貢献してこられたのか改めて窺える。

今回はそんなプロ野球関係者の報道の中、まだ球児だった頃「ノムさんの言葉に救われた」と涙ながらに話すある名門校出身OBに、野村克也さんに抱く熱い想いを語ってもらった。

球史に名を残す野村克也さん

野村克也さんとはどんな人だろう。
直接関わった人もそうでない人も多種多様な感じ方があるのではないだろうか。

歴代最高の捕手の一人、名将、愛妻家…様々な側面を持ち合わせる野村克也さん。

だからこそ人には真似できないものを生み出し、球界を変え、スターを育て上げてきた。
そんな野村克也さんのこれまでを、プロ野球に携わる人々のコメントも交えながら少し振り返っていきたい。

 

名言・格言…選手・球界を変えていった「野村イズム」

「ID野球」「野球は頭の使い方で決まる」野村克也さんと言えばまさにこの頭を使う野球の伝道師ではないだろうか。「ID野球の申し子」と言われる古田敦也さんも、野村さんの指導のもと歴代最高の捕手の一人となった。「弱者の戦略」と表現するそれは、低迷期のヤクルトを4度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた。

「眼鏡をかけたキャッチャーは大成しない」というジンクスを跳ね除けたのも、野村さんと古田さんの二人三脚の功績である。

自分のことは「月見草」と、当時のスターだった王貞治さんと長嶋茂雄さんという「ひまわり」と称した野村さんは表立って咲くことはないが、自分は人目のつかぬ場所で綺麗に咲ければいいと2901安打・1988打点・657本塁打と右打者で歴代最多記録を樹立している。「自己満足かもしれない」と本人はコメントしていたが、当時人気のなかったパ・リーグを変えた一人には間違いない。

先月、金田正一さんのお別れ会であった長嶋さんは、野村さんに言われた「頑張ってるか。オレはまだ生きてるぞ」という言葉が忘れられないという。

「ささやき戦術」も野村さんの真骨頂の一つだ。
王さんには「そんなの聞いてられないよ」と通用しなかったという談話もあるが、後の「ボヤキ」もここから生まれた。当時は楽天の監督を務めており、「マー君 神の子 不思議な子」とヤンキース・田中将大選手に対するボヤキも有名だ。

田中選手は、今回の訃報を受け「言葉が出ません」と悲しみをにじませた。
また、ヤクルト・高津臣吾監督は「またぼやいてほしかった」ともう聞くことができない野村さんのボヤキを思い出し、涙をぬぐった。

「生涯一捕手」そう常々言っていた野村さんは、ソフトバンク・甲斐拓也選手に自身の付けていた背番号「19」を託した。育成から這い上がってきた甲斐選手に、テスト生から這い上がった自分を重ね合わせたような背番号の継承だったが、その姿を見ることはなかった。

甲斐選手も「見てもらいたかった」と瞳を潤ませた。

楽天・石井一久GMや侍JAPAN・稲葉篤紀監督も野村さんが原点であったり、勝ち方を教わったと感謝の言葉を述べている。

多くの選手と日本球界に影響を与えた野村さんの名言・格言。
それはこれからも影響を受けた全ての人の中で生きていくに違いない。

 

SNSで「野村監督」に感謝を

SNSでも野村克也さんへの感謝は綴られた。

楽天時代の教え子・マー君こと田中将大選手は、今回の訃報に言葉が出ないと衝撃を受けながらもプロの投手のイロハを教わった野村さんとの出会いは「野球人生における最大の幸運のひとつ」と感謝しきれない想いを綴った。


阪神時代の教え子で、来季NPBへの再挑戦を表明している新庄剛志さんはInstagramで「宇宙人の名付け親」と題して、阪神時代の指導や4番起用に触れつつ「俺がそっちに行ったら叩き起こすんでそれまでゆっくり寝ててください」と感謝の言葉を綴った。

 

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#新庄剛志 #野村克也 宇宙人の名付け親  新庄お前はファンに愛されるカッコつけて野球をやればええんや 選手に自由に野球をやりなさいって指導したのはお前だけや お前は悔しいくらい可愛いな(>_<)最高の言葉有り難うございました 実は野球の指導を1回しか受けた事がないその一回はボールをしっかり芯でとらえなさいただそれだけでした  お前は何番だったら野球を真剣にやってくれるんだ?そりゃ4番ですよ〜次の日から僕を4番に起用し、その年プロ野球人生最高の成績をあげメジャーに行けた ベルサーチいいですよって教えたらずっとベルサーチを着続けてくれた カツノリの性格の良さはプロ野球選手の中でトップお父さんお母さんのおかげ 俺が死んだ後今度は俺が監督ノムさんが選手で二刀流をさせるその時はキャッチャー新庄 野村克也という人間に野球人生の終了は1%も無い 俺がそっちに行ったら叩き起こすんでそれまでゆっくり寝ててください(>_<) 本当に笑顔で有り難うございました(^^)また会う日まで野村克也監督。

新庄 剛志(@shinjo.freedom)がシェアした投稿 –

元巨人・上原浩治さんもInstagramで「月見草と雑草、陽が当たらないところで育った私達だからこそ今の自分があるのかも知れません」 と書かれた野村さん直筆の表彰状をアップし、「家宝です」と感謝の言葉を綴っている。

 

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野村さんから、直筆の表彰状を貰った人って ほとんどいないでしょう… これは家宝です!! 本当にありがとうございました

Koji Uehara(@koji19uehara)がシェアした投稿 –

カブス・ダルビッシュ有選手もYouTubeで「あえて野村監督と言わせていただきます」とし、「2019年のシーズン、『もう俺終わったな』と思ったとき野村監督がベストナインに選んでくださったおかげで頑張れた」と復活のきっかけを作ってくれた名将に感謝を述べた。

 

野球を好きになりなさい

「ID野球」の印象から、野村さんの野球はデータを駆使した頭を使った野球が全てと思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、前述の「ボヤキ」やダルビッシュ選手の動画にある「柔軟な感性」というところから、非常に人間味に溢れた方だとお分かりいただけるだろう。

オリックスを戦力外になり、その後楽天で本塁打王を獲得し復活を果たした山崎武司さんは、「野村再生工場」にて「野球を好きになりなさい」と言われたのがきっかけだったと述べている。

南海時代にバッテリーを組んだ江本孟紀さんも野村さんを「言葉を持っている人」と表現し、そこには「野球を愛しなさい」という教えがあったという。

ヤクルト・嶋基宏選手も楽天時代「優勝チームには名捕手あり」と教えを受け、「だからお前は名捕手になれ」と言われた言葉を大切に今もプレーしていると述べている。

データ野球の中に溢れた愛が、たくさんの教え子から慕われる理由だったのだろう。

 

妻のことも愛した「愛妻家・ノムさん」

野球や教え子たちだけでなく妻のことも愛し、愛妻家として知られていた野村克也さん。
そのおしどり夫婦ぶりは、「2010年パートナー・オブ・ザ・イヤー」でも表彰された。

死因となった「虚血性心不全」も17年に亡くなった愛妻・沙知代さんと同じだった。
決して死因が同じことが良いことではない。しかし、野村さんに限っては「それすらも同じなのか」と先に逝ってしまった妻への愛を感じる。

息子の楽天・克則コーチは、急逝のショックを受けながらも「いい夫婦でした」と二人の仲の良さを涙ながらに語った。



プロ野球以外にも影響を与えた「野村イズム」

プロ野球関係者のコメントから、野村克也さんの影響力を感じたがその影響力はプロだけに止まらずアマチュアの選手や一般の方にも影響を与えた。

そして、野村さんの言葉は野球から離れようとしていた一人の人物の心を引き留めたのだった。

 

野球には一切関わらず生きていこうと思った

「野球には一切関わらず生きていこうと思った」そう話すYさん(仮名)は、高校・大学と名門へ進学しプロを目指してプレーしていた。しかし現実は残酷で、練習量とは相反して全く結果が出ない日々と繰り返す怪我によって日の目を見ることはなかった。

独立リーグから指名を受けるも、大学時代に発症した「イップス(投球障害)」が原因で指名を辞退した。当時140km/hを超える速球を投げていたが、イップスで126km/hまで低下しマウンドに上がるのが怖くなってしまったのだという。

絶望したYさんは、大学卒業後は一般就職し「野球とは一切関わらない」と決めるも日課にしていたプロ野球ニュースの視聴がやめられなかったようだ。特に大好きだったのが野村克也さんの「ボヤキ」で、キャッチャーだった小学校時代に目標としていた古田選手の恩師・野村さんの言動には興味津々だったという。

「早く野球は忘れよう」と思っていたある日、ある番組で野村さんが発した「野球を好きになりなさい」という言葉に胸を打たれ涙したそうだ。

「小学校…いや中学卒業までですかね。野球が楽しくて楽しくて大好きだったんです。でも、高校に入って高いレベルに触れてついていけない自分がどんどん惨めになって、『プロになる』という純粋な夢を信じられなくなりました。それから野球をやるのが辛くて、自分を戒めながら練習しても結果が残らなくて、最後にはイップスになって…。もうやめよう。野球とおさらばしようと思いました」

「けど、野村さんの言葉を聞いて『俺が野球をやっていたのは野球が好きだからじゃないか』と思い出しました。そんな単純なことも忘れてしまっていた自分に、野村さんはもう一度野球が大好きだということを思い出させてくれました」

Yさんは、野村さんに直接会ったことも話したこともない。
ただ、これがきっかけでYさんが野球が好きだと再認識できたというのは間違いない。

 

野球と生きていく

それからというもの、Yさんは社会人になった後に軟式のクラブチームのトライアウトに合格し今もプレイヤーとしての日々を過ごしている。イップスによる弊害は残ったままだが、球速はまた140km/hを超えるようになり、最近は捕手に再挑戦もしている。

「今はプレッシャーを感じてないんで、楽しみながらやれているのかなと。イップスとは一生付き合うことになると思いますが、『頭を使って』うまく対処しますよ」

また、少年野球の指導を行ったり、現在は野球事業の展開に向け動いているという。

「結局、野球が好きでそれがないと人生楽しくないんです。『野村-野球=0』と野村さんもおっしゃっていましたが、僕もそうです。野球がなかったら今の自分はありませんから」

野村さんの話になると涙ぐむ場面も多々あったYさんだが、彼の中にも「野村イズム」が生きていることを感じた。
「野球と生きていく」それは、野村克也さんが残した全ての野球人への財産なのかもしれない。

 

 

最後に

多くの人に影響を与え、NPB、延いては日本の野球界の発展に貢献された野村克也さん。
筆者もまた影響を受けた一人である。

それぞれに感じた「野村イズム」。
筆者も自分なりに感じ取った「野村イズム」を、今後の野球界の普及と発展に活かし、その活動に尽力することを誓い、心より野村克也さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

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